top of page

いつかのこと

波瑠

 彼の「ただいま」は少し間の抜けた響きがする。がらがらと音を立てて開く引き戸の玄関扉。もうずいぶん長いこと履いている3ホールのドクターマーチン。
 三和土をあがってすぐのところで三角座りをしていた私に随分と驚いたようで、思い切り肩を揺らした。
「うおっ、て、あれ、琴子かあ、びっくりしたー、座敷わらしかと思ったー」
 言いながら私と同じに腰を下ろし、目線を同じくする。先に抱きしめたのはどちらだろう。目があった刹那、ほとんどお互いの胸に飛び込むように抱きしめあった。

 絃が帰ってきたその日、いつもよりも早い時間にみつきが帰ってきた。
「客来なかったから早めにしめるって店長が。仕事ないし早あがりさせてもらった」
 上着を脱ぎながら、「ああ、いたの」くらいに絃を一瞥する。丸いローテーブルの北側に座った絃はみつきを振り仰ぐ。口の端が緩みきってる。
「とか言っちゃってるけど二週間ぶりにおれに会えるのが楽しみで急いで帰ってきたんでしょ、知ってる知ってる」
「また煩い日々が」
「しばらくはどこにも行かないから安心して」
「行け。どぶ板を踏んで働け」
 そんなふたりのやりとりを、テーブルの西側で頬杖をついて見ている私の口元もきっと緩んでる。子供みたいなやりとりは、ふたりは中学からの友人だというから、きっとそのころから変わらないんだろう。
「みつき。ケーキ買ってるから食べよう」と私。
「あ、おれのおみやげもある」と、絃。
「なに、食べ物?」
「静岡のお茶と三重のお茶と京都のお茶」
「静岡茶と伊勢茶と宇治茶か。そんないろんなところに行ってたの」
「中部と近畿をまたいでペットの猫探ししてた」
「ずいぶん活動的な猫だな」
 たしかに。絃は仕事でいろいろなことをやっているらしいけれど、聞くたびにびっくりしてしまう。どこまでが本当かはわからないけれど、今まで深く追及したことはない。
「飲み比べするー?」と絃。
「深夜2時に? ケーキをお供に?」とみつき。
「いえーす」
「もちろーん」
 お気楽そのものな様子の私と絃は、おおげさな溜め息をもらうことになるけれど。
「勝手にやってろ」
 と言いながら、つきあってくれるのがみつきの優しさというか、ひねくれ具合というか。
 いつものように絃がお茶を淹れてくれる。こういうときの彼の仕事は惚れ惚れするほど丁寧である。
 絃がいれたお茶と、私が買ってきたケーキ。お茶は湯のみだけでは足りなくて、マグカップとティーカップに入ってるものもある。みつきがいちごのショートケーキ、絃はチーズケーキ、私はフルーツタルトをそれぞれ選んだ。そんな深夜2時。

  2週間ぶりの我が家 落ち着く〜
  お茶の飲み比べ結果:みつき→伊勢茶 こと→静岡茶 おれ→宇治茶
  見事に好みが分かれた
  今度から茶飲むときは各自でいれることになりそうだ


 

© 2023 by Artist Corner. Proudly created with Wix.com

bottom of page