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おまけ

緑茶

 あたしは、もう好美が戻ってくることはないだろうな、ということだけはっきりとわかっている。
 目の前でこの輪から離れていったのだから。誰も止めはしなかったし、あたしも止める余裕がなくて彼女をほったらかしにした。
 事の中心にいた小百合は、結果だけ言うと、失恋した。あっという間に。ミサの簡潔すぎる文句で。
「いや、女がアリでもアンタがイケるとは言ってないし」
 室内に、人間が三人いるなんて信じられないくらいの冷たい沈黙が下りた。露出している腕や顔の皮膚を針で突かれるような静けさだ。
 好美に戻ってきてほしかった。凍りついた空気を、彼女なら何だかんだとうまく和ませられるのではないかと思う。多分、彼女は「無理言わないでよ」と怒って見せて、それから結局何とかしてくれる。でもやっぱり彼女は戻ってこない。
「あの……」
 何とか声を出した。小百合とミサの、首だけがこちらを向く。小百合の顔は、神経まで凍りついてしまったように少しも動かない。ぎょろっとした目があたしを見つめると、それだけで心臓を握られたような気がする。
「ちょっと落ち着こうよ。あたし……の、飲み物買ってくるからさ!」
 とても最後まで目を合わせてはいられなかった。言い終わるのと同時に、上着と財布の入った鞄を腕に引っ掛けて、リビングを飛び出す。
 薄暗い廊下を直進して、小百合の仕事部屋の前を横切る。玄関にはあたしとミサ、小百合の靴が置いてあるけれど、好美が相当慌てていたのか怒っていたのか、蹴り飛ばされたらしい靴たちが狭いスペースに散乱していた。
 私は苛立ちながらも無言で、散らかった靴たちを一列に揃えた。早く出たいのに、なにやってんだろ……。
 自分の荒い息が耳に届いてうるさくて、それでも止められない。
 やっと並べ終わってから、靴を履いて玄関ドアをくぐった。
「あ、ちょっと待って頼子ー」
「わ!」
 それまで不自然なくらい静かだったリビングから、あたしと同じように鞄と上着を腕にかけたミサが追いかけてきた。
「私も一緒に行く。シュークリーム食べたい」
「あ、うん」
 あまりにも自然に、普段通りにミサが喋るので、あたしは頷いてしまった。ミサの纏う空気は、本当にただデザートが食べたくなったから近くのコンビニに出かけるって感じで、その様子がそうさせた。
 もしかして、あたしが部屋から離れたほんの一、二分の間に、二人の間で何かが解決したんだろうか。もしそうだったら、と期待を込めて、リビングの方に向き直った。
 ミサが出てきたリビングのドアがちょうど閉まっていくところで、その隙間から、小百合が私の方を見ていた。
 大きく見開かれた目だ。スーパーで売られている、天井を見つめたまま濁った魚の目を思い出させる。人間はこんな目ができるのか、と思った。様々な感情が混ざり合って、あんなふうになるのだろう。
 小百合はその目を、あたしに向けるのか……。
 ――ガチャン。
 リビングのドアが閉まった。曇りガラスの隙間から、座り込んだままの小百合の影が薄く見える。まだこちらを見ている。
「ほら行こ」
 ミサに肩を叩かれて、あたしは玄関のドアを閉めた。
 少し駆け足気味でエレベーターに乗り込み、ミサはあたしの後ろをマイペースについてきた。
 マンションを出てから、コンビニのある方に向かう。店は駅に向かう道の途中にある。
 あたしが歩き出すと、後ろのミサもコツコツと靴のヒールを鳴らして続く。
 マンションから離れるほどに、少しずつ心音が静かになっていく。あの部屋で待つ小百合のことは、なるべく思い出さないようにして、歩を進める。
 片道十五分くらいの道のりだ。戻ってくる頃には、小百合も落ち着いて元の彼女に戻っているかもしれない。そう信じたい。
「頼子ぉ」
 何、と振り返ろうとしたら、ミサが後ろから服を強く引っ張った。思わず後ろに転びそうになって、その背中をミサが支えた。
「何やってんの」
「アンタのせいでしょ」
 怒ると、なぜかミサは笑う。あたしは結構本気で怒鳴ったのに、そんなふうに笑われると、何だか怒る気が失せてしまう。ミサの笑い方は、そういうさっぱりしたものだ。
 どうして一緒にあの部屋から出てきたのに、ミサばかりがこんなに気持ちよく笑えるのか、不思議で仕方がない。
「頼子が落ち込んでたり怒ったりするから面白くて」
「あたしは面白くない」
「私は面白いの」
 ミサがきっぱりと言い切る。
「好美は逃げちゃったし、小百合はうるさいだけだし」
「そういう言い方止めな」
「いいじゃん。二人ともいないんだから」
「よくない。……あたしが聞いてる」
 それくらいわかりなさいよ、という意味で睨みつけたけれど、いつの間にかミサはあたしの前にいて、背中を向けて歩いている。
「このまま歩いたら、好美に追いついちゃったりして」
 ミサが言って、初めてその可能性に思い当たった。
 もし好美に追いついてしまったら、あたしはどうするだろうか。きっとすごく気まずい。でも、もう一度ちゃんと話し合ったら、彼女は戻ってくるかもしれない。話を聞いてくれるかわからないけれど、好美が出ていった時、あたしはほとんど声もかけられずにいたから。今度こそ何か、好美に言葉をかけてあげたい。ほんとはあたしも小百合のことですごく驚いたんだ。好美が嫌がる気持ちも少しはわかるよ。それくらいは言ってあげたい。
「好美は戻ってこないだろうなあ……」
 心を読まれたのか、と思ってしまうタイミングだった。
「何で……」
 んー、とミサが上を向いた。何かを考える仕草だ。
「だってさ、私たち――」
 あたしの質問に答えようとして振り返ったミサが、真っ黒になる。――ちがう。視界が真っ黒になった。
「うわ! なにこれ……え、何よマジで」
「わ、わかんない! て、停電?」
 ミサの短い悲鳴が聞こえたけれど、あたしも突然の暗闇にびっくりした。自分で停電、と言ってから、きっとそうだと思った。もともと夜遅くだから住宅の灯りが消えているのは当然だけど、今は街灯の光までも消えている。目に見える範囲に光源はない。
 見上げても、月も星も見えない。まだ暗闇に目が慣れなくて、周囲の物の輪郭も捉えにくい。
 その時、すぐ近くで聞き覚えのあるメロディが聞こえた。
「わ! ……あ、電話」
 鞄に入れていたスマートフォンが鳴っている。慌てて取り出し、画面に小百合の名前が表示されているのを確認する。
 もしかして、小百合も突然の暗闇に驚いて、あたしたちを心配したのかもしれない。急いで応答する。
「もしもし小百合?」
「さいて……」
 電話越しに、小さな音が聞こえた。小百合の声だ。
「え、何て?」
 声が小さすぎて、聞き返す。よくあることだ。小百合の声は電話機を通すととても聞き取りにくくなる性質のようで、発音に問題があるわけでもないのに、電話では何度も聞き返してしまう。
「……」
 返答はない。
「頼子ぉ? 電話してんの、小百合ぃ?」
 闇の中からミサの声がした。さっきよりも少し遠くなっている。
「ちょっと待ってミサ。あたしはこっち!」
 片手を大きく振ってみるけれど、ミサの方から見えているかはわからない。
「どっちー?」
「だからこっちー」
 耳元で、すぅーっと息を吸い込む音がした。
「死ねブス!!」
 突き刺さるような怒声が耳を抜けて、一瞬視界で光が弾けた。
 何が起きたのか理解が追いつかなくて、少しの間思考が途切れた。
 ハッとしてスマートフォンを耳から離して画面を確認すると、「通話終了」の文字が表示されている。
「…………は?」
 なんだったの、今の。
 しねぶす……って何だ。どういう意味?
 あれは本当に小百合の声だったか?
 あんな大声が出せたのか?
 わからないふりをしようとするあたしの頭に、部屋を出た時の小百合の姿が浮かぶ。
 そうだ、あたしは彼女にあんな目を向けられていたじゃないか。とても人に向けられるものとは思えない眼差し。あたしはあの時、確かに怯えていた。親しい人間に、それもあの小百合に、そんな親の仇でも見るような目で見られて……。
 いや、おかしい。そこまで思い出し、考えて、ようやく気づく。
 あたしは決して、彼女にそんな態度を取られるようなことはしていない。
 お節介かもしれなかったけれど、小百合は繊細な子だからと、意識して優しく接していた。時々ミサや好美に贔屓だとからかわれるくらいに。
 さっきの部屋での時だって、あたしに余裕がなかったから味方になってあげられなかったけれど、それでも絶対に、彼女の気持ちを責めるようなことはしなかったはずだ。それがどうして……。
 胸のあたりだろうか、体の中がずん、と重くなったようだ。何だか、とても小百合を許せない気持ちだ。
 いや、許さない。私は怒っている。そうだ、あたしは怒っているのだ。
 どうしてあたしが、あんな理不尽な言葉で罵倒されなくてはならないのか。「死ねブス」なんて、そんなこと小百合には――。
「わ!」
「きゃ!」
 突然肩を強く押され、思わず悲鳴が漏れた。んふふ、とミサが笑う。
 いつの間にか、ミサがあたしの隣まで戻ってきていた。
「あ……あれ?」
 よく見ると、いやよく見なくても、ミサの姿が薄っすらと見えるようになっていた。相変わらず街灯の光は戻らないが、すっかり暗闇に目が慣れたようだ。
「どしたの?」
 不思議そうにミサがあたしを見る。
「……」
 何でもない、と首を横に振る。
「じゃあ行こ。道はこっちで合ってるでしょ」
 ミサがあたしの腕を引っ張って、ずんずんと進んでいく。
 あたしはその力に従って、ついていく。一人だったら、いつまでもあの場に留まっていたかもしれない。
 歩いていると、あたしの中にある小百合への怒りが、段々と沈んでいく。簡単なことだ。歩けばよかったのだ。
 そうすると、次に浮かんでくるのは心細さで、それを感じてから、友達といるのに心細いなんて変だ、と思った。
「ミサは、戻るの?」
 ミサの背中に聞いてみる。
「小百合のとこ?」
「うん」
「戻らないって、あんなとこ」
 ミサがまたんふふ、と笑う。上機嫌だ。
「あたしさ……」
 ふと、口をついて出てきた。
「ミサは小百合のこと、ほんとはあんまり好きじゃないんだと思ってた」
「嫌いではなかったよ」
 過去形だ。言葉遣いが変だ。ミサっぽくない。
「小百合ってさ、あたしと喋ってる時の顔すごく面白いんだよ。必死な感じの」
 でもさ、とミサの声。
「あの子のあーゆー愚かしいところ、好きとは思わない」
 愚かしいなんて、普通喋り言葉で使わないだろう。まして、友人に対して使う言葉でもない。その言葉を、ミサが小百合のどの部分に対して使ったのかはわからない。けれどそれは、あたしの知らないミサの、もしかしたら内側とか本心とか、そういうところから出たもののように感じた。今のは小百合のことだけど、本当は好美やあたしに対しても、「愚かしい」と思っている部分があるのかもしれない。
「……化粧すると、魚っぽくなるしね」
 自分の耳でも聞き取れないくらいの小声だったのに、ミサが驚いた顔で振り返った。
「お! どしたの頼子。らしくないじゃん?」
 らしくない、と言いながら、彼女は嬉しそうだ。
「べつに」
 前からそう思ってはいたんだよ。
 ミサはぐんぐん進んでいくけれど、気づいているのだろうか。
「コンビニ、停電してるんじゃ買い物できないんじゃない?」
 レジも冷蔵庫も、全部止まっているだろう。
「そん時は、万引きしても気づかれないでしょ」
 そんなことを、大声ではっきりと、ミサが言った。

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