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Dear

中山文花

 

 

 あなたの歌がそこにあることを思えば、それはまるで奇跡のような話なのだった。
私が生まれて生きていることはとるに足りないことだった。あなたとの共通点をさがしては喜び、あなたの特異性を目のあたりにしては興奮した。
 あなたが歌いだした瞬間、ああ、これは奇跡だ、と思う。あなたの歌が万人に好かれるものかどうかはわからなかった、けれどあなたの歌を自分が一生好きであるだろうということは信じられた。それはあなたの歌に対するたしかな自信であり、だれかには負けるかもしれないけれど自分にとってはたいせつな、あなたに対する愛のようなものだった。

 朝起きたら前髪があらぬ方向にはねていて、こんなありさまではとても外出はできないと困り果てながら、奔放にはねる前髪の、そのあまりの自由さに笑った。 人は、こんな頑固な寝癖がついたとき、どうやってもとのようになおすのだろう。いいかげんな私はお湯か水で濡らして無理矢理にどうにかするしかやり方を知らず、給湯器のスイッチを押して、勢いよく流れはじめたお湯に頭を突っこんだ。流れでるお湯は前髪だけでなく顔をも濡らして、髪と顔の輪郭をはずれた水流が首筋を伝って襟を濡らした。お湯を止める。ずぶ濡れになった前髪から、水滴がとどまることを知らないように流れる。

 ずぶ濡れの犬みたい。だれが? あなたが。

 あなたの犬になってみたい。

 ねぐせを。

 寝癖をなおして、外へ出る。

 彼には彼の生きてきた時間があって、それはきっと、とてもうつくしくはないかもしれないけれど陽気さにあふれながら、ちゃんと呼吸をしているのだと思った。
 わたしは彼の生まれたときを知らない。彼の幼いころを知らない。彼がいつなにと出会い、いつ泣かないことを覚え、喜びを知り、悲しみを隠し、怒りを感じ、性にめざめ、泣くことを思いだしたのか、おそらくはなにもわかっていない。
 時間はわたしにも彼にも等しくある。あった。だろうか?
 わたしよりも先に生まれたから、わたしよりも少しだけ多く生きている。その時間差を差し引いて。彼にもわたしにも、おなじ世界がある。おなじ地球にいて、おなじ人間に生まれた。ささいな誤差みたいなもののように、環境や家族や性別や声や体型が異なりながら、わたしたちはおなじ世界を手に入れた。
 おなじ世界にいる。

 違う時間を生きてきた。
 彼とおなじ時間を歩くのは。

 横顔を見つめたら、やがて彼がふり向いて、目が合うかもしれなかった。そうしたら笑って、おたがいが一方通行みたいに手を伸ばして、それを、握り合えたらよかった。

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